草間時彦氏の「俳句十二か月」を読み始めている。
そのまえがきに
「俳句は存問の詩である」と言う言葉が出てくる。
高浜虚子の言葉らしい。
存問(そんもん)とは訪ね、見舞うこと、安否を問うことであって、
「お寒うございます。お暑うございます」と
日常の生活を通じ、人々や自然への問いかけがすなわち、
俳句とのことのようだ。
最近は寒い冬と暑い夏しかないような天候になってしまったのだが、
昔は確かに四季があった。
日本人の細やかな心情は、その季節を更に細かく
二十四節季に分けて、自然の移ろいと人々の営みを現してきた。
たまたま、接した俳句講座を契機に
日本人としてのものの見方や心の持ち方を再認識するように
なった気がしている。
話は飛ぶが、Windows10の漢字変換機能
以前から、日本人感覚とのズレが酷いと思っていたが、
俳句歳時記にあるような美しい言葉に接してみると
これは由々しき問題だと思ってしまう。
「そんもん」、このような言葉が「存問」に変換されることは
ありえない。
大東亜戦争の敗戦で、個人の責任よりも個人の権利主張を
優先する憲法を押し付けられて、日本人の美徳が失われて行ったように、
日本人感覚が崩されているような気がしてならない。